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徳次は気が抜けたやうに、口のあたりをもごもごさせるきりだつた。
と、道平は明かに盛子に気兼ねをしているらしかつた。
この家はこの娘のためになんとなく幸福そうに見える。一群の鶏も、数匹の白兎も、ダリヤの根方で舌を出している赤犬に至るまで。
「じゃそのお松まつと言う女はどうしたんです?」
「おい、ビールは冷やしてあるかい」
練吉は永い間黙つていた。それから、いかにもいやいやな調子で、
と、急に練吉が小耳にはさんで云つたのは、多分黙つて他のことを考へていたのだらう。
房一は自転車を降りて押しながら歩いた。しばらく行くと貯水池が見えて来た。あたりは松林で、その抜き立つた幹の間から水面が光つていた。向ふ側は半ば葉を落した雑木山だつた。いたる所が透いて、明あかるく、からりとした空気の中を時々つんと強い山の匂ひがした。
と、一向にそんなことを知らない房一が云つた。
その頃の宿屋には二階の便所はないので、逗留客はみな下の奥の便所へ行くことになっている。今夜も二階の女の客がその便所へ通って、そとから第一の便所の戸を開けようとしたが開かない。さらに第二の便所の戸を開けようとしたが、これも開かない。そればかりでなく、うちからは戸をこつこつと軽く叩いて、うちには人がいると知らせるのである。そこで、しばらく待っているうちに、他の客も二、三人来あわせた。いつまで待っても出て来ないので、その一人が待ちかねて戸を開けようとすると、やはり開かない。前とおなじように、うちからは戸を軽く叩くのである。しかも二つの便所とも同様であるので、人々もすこしく不思議を感じて来た。
と、舌ざはりの悪いものでも口にしたやうな調子で、練吉はぽつんと云つた。
読経どきやうはまだ始まらなかつた。
今日見るその顔は、色こそ黒かつたが、地蔵眉の、眼もそれに釣り合つて細い糸を引いたやうにやさしかつた。だが、その声には何かきつぱりした、率直さが感じられた。